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『古事記』は地球問題の解答書
第3章/『古事記』の「唯神一元論」の世界観を理解する
1節/「木はその結ぶ実によって分かる」という「客観的傍証」はどのように成立するか

 平成30年・皇紀2678年12月12日
 うらしま たろう

 

1節 

「木はその結ぶ実によって分かる」という
「客観的傍証」はどのように成立するか

 


1)客観的に観察できるものは実在していない

 前章までの考察で、『客観的に観察できるものは実在していない』という意味が理解できると思います。「今≠フ一瞬に存在する何ものか」が、「物質」として客観世界に映し出された瞬間から、それは「鏡」の世界を見ているようなものであり、映し出された「観察可能な物質」は、「何ものか」の「投影」であって実在していない、ということになります。つまり、『「観察可能な一切の存在」は「客観的存在である」という理由だけで、「実在しない」と云い得る』ことになるのです。

 

2)「実在するもの」をどのように客観的に認識・理解するか

 「客観的存在は実在しない」という事は比較的理解し易いと思いますが、では「実在するもの」に対して、どのように認識・理解するかは極めて難しい課題です。「客観的に観察する」手法を使うことによって、「客観的存在(実在しないもの)」は観察が可能となりますが、「実在するもの(真にあるもの・客観的存在でないもの)」は、その手法では実証し得ない、というジレンマが生じる事になります。

 

3)「実在するもの」は客観的には認識(証明)し得ない

 「客観的に観察できるものは実在していない」という結論から見れば、「客観的認識」という概念自体が「実在でない」ことを現しているのでありますから、『「実在するもの」をどのように客観的に認識するか?』という設問自体に誤りがあるということになります。つまり、『「実在するもの」は客観的には認識(証明)し得ない』というのが、結論とならざるを得ません。

 

4)「直感的把握」と「客観的傍証」

 ということは、「真に実在するもの」をどのように理解(認識)するかの問題から、『「真に実在するもの」が本当にあるのか無いのか』を見極める方法は存在し得るのか、という疑問が生じて来ます。この『「真に実在するもの」が本当にあるのか無いのか』は、直接的な証明、客観的な証明は不可能であり、人間の内なる「非客観的存在」に対する「直感」に頼ることにならざるを得ないと考えられます。もう一つは、「実際にその学説や思想を、生活や社会に応用した時の結果証明」によって、可能であると考えられます。つまり「客観的傍証」です。

 

5)「学説や思想を生活や社会に応用した時の結果証明」によって、その正誤を見極める事ができる

 哲学や文学というものは、多くの人々がその哲学者や文学者が称えた主張(考えや思想)≠フ影響下におかれた時に、「人々の実生活にどのような影響を与え得るか」という事を以て、その主張≠フ善し悪し、正しさを証明する事が出来ると思います。哲学や文学のみならず、経済学、政治学などにおける「学説」の裏付けは、比較的難しいと考えられます。それは、人間の心の「意志」や「想念」や「判断」等の要素が、「学問的」な「条件」や「原因」として十分に把握できない為に、「学説」の裏付けを困難ならしめていると言えるからです。しかし、重要なことは「実社会における検証=v、即ち「実際にその学説や思想を、生活や社会に応用した時の結果証明」であると考えられます。論理的・客観的に証明しにくい「概念・思想」の正誤を見極める方法は、「実際にその学説や思想を、生活や社会に応用した時の結果証明」による、「客観的傍証」によって確認が可能と言えます。

 

6)歴史も人間生活も「客観的傍証」を得るためと言える

 《悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。 木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。》(「ルカによる福音書」6章より)のイエスの言葉にある様に、物事の結果の善し悪しを観察すれば、その概念や思想の善し悪しが解ることになります。吾々人間はこの「客観的傍証」によって、人生を歩んでいると言えるでしょう。又、「歴史的実証」の意味は、この考え方に由来していると言えます。


 

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