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『古事記』は地球問題の解答書
第1章/『古事記』と「神道」の世界的歴史的意義について
8節/『古事記』は、キリストの「愛」「神の子」の真髄に通ずる

 平成30年・皇紀2678年11月3日
 うらしま たろう

 

8節 

『古事記』は、
キリストの「愛」「神の子」の真髄に通ずる

 


1)「神道」に「教義」はない/「神道」は「宗教」ではない

 よく、『「神道」は「宗教」でない』と言われることがあります。それは全くその通りだと思います。「神道」は「惟神の道」であって、「教義」は存在していません。その意味からすると、世界中でも極めて特殊な「宗教的存在」と言えるでしょう。「生命の道」「生きる道」「生活の道」「神の道」「一つ(一体)の神の道」が「神道」と言えます。それに対して、一般的な「宗教」は「教義(ドグマ)」があり、「教え」が中心となっています。その「教義」の違いによって、宗教争い、宗派争いが多発することから、「宗教」「宗派」が、争いの原因の一つと言われて、多くの人々から訝(いぶか)られています。人類の歴史を紐解けば、「宗教同士」の争いが原因で、戦争が起こっているのは事実です。しかし、「神道」「惟神の道」には、「宗派争い」「対立」はありません。どんな宗派の人であっても、「神の道」を歩けば、その瞬間「神の国」(唯神一元論の世界)に入っているのです。「神の道」を歩かなければ、その瞬間「迷いの世界」(唯物二元論の世界)に入っているのです。その「道」が「神道」(惟神の道)なのです。

 

2)「一切他者は自分と同じ神≠ナある」という思想に対立はない

 では何故、「神道」に「宗派争い」「対立」がないのかと言いますと、それは『古事記』の本質に原因があるのだと考えられます。つまり、「神が一切を生む」世界観であるが故に、「一切他者は自分と同じ神≠ナある」からです。本来一体の概念を持つ者に、「宗派争い」「戦い」の存在する訳がありません。『古事記』の世界観は、「自他一体」の世界観ですから、「愛」の世界ということになります。全ての人間が求めて止まない「愛」の本質を、『古事記』は体現していると言えるのです。

 

3)「神道」は誰でもが生きるべき「生の本質の道=v

 『古事記』は、「神が一切万象を生んだ」という「宇宙観」であり、「神観」「人間観」だと言えます。その『古事記』の「宇宙観」をそのまま生活に現したものが、「神道」(惟神の道)でありますから、一宗一派の「宗教」とは全く異質のものと言えます。誰でもがその「道」を生きるべき「生の本質」と言えます。したがって、「キリスト教」やその他の宗教を信仰しながら、「神道」(惟神の道)の精神を生きれば良いことになります。

 

4)「キリスト」の思想は『古事記』の思想と同じ

 「神道」を生きる時、「キリスト」の真の教えが、体得されることになります。先に「愛」の話に触れましたが、「キリスト」の思想の真髄は、「愛」であります。「天にまします我等の父≠諱vと祈った如く、「我等(人類)の父(神)」であると認識していた「キリスト」は、「神」は人間の「父」であり、「人間」は「神の子」であるという「神観・人間観」「宇宙観」を持っていた事が解ります。「キリスト(自分)」だけが「神の子」だとは、イエス自身一言も言っておられないのです。すなわち、「キリスト」の思想は、『古事記』の思想と同じであると言えます。

 

5)『古事記』「神道」の真髄を理解すれば、キリストの精神が理解できる

 しかし、後の「キリスト教会」の教え(教義)は、「キリスト」だけが「神の子」としてしまいました。これでは「キリスト」の真意を汲み取ったものではないと言えるでしょう。「キリスト教」を信仰する人が、『古事記』「神道」の精神を理解すれば、「人間は神の子である」という『古事記』の思想が理解でき、自ずとその思想が「キリスト」の精神であったという事が理解できる様になるでしょう。
 この様に、『古事記』「神道」は、一切の宗教を変える事無く、その真髄を生かす「絶大な力」を持っていると言わざるを得ないのです。

 

 

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