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『古事記』は地球問題の解答書
第1章/『古事記』と「神道」の世界的歴史的意義について
4節/『古事記』と『旧約聖書』の比較

 平成30年・皇紀2678年10月29日
 うらしま たろう

 

4節 

『古事記』と『旧約聖書』の比較

 


1)『古事記』と相対する『旧約聖書』との比較

 さて、上に紹介した『古事記』の「生む」思想と、相対して存在しているのが、前述したところの『旧約聖書』の思想です。その特徴である、(a) 「人間は塵から創られた物質である」とする「唯物思想」と、(b) 「人間は創造主≠ゥら創られた被造物≠ナある」とするところの「支配・被支配(二元論)思想」と、(c)「神との約束(契約)を人間が破った為に原罪≠ェ存在する」の三つとの比較を行ってみると、『旧約聖書』と『古事記』の違いが極めて明確に見えて来ます。

 

2)「唯物的要素」は微塵も存在しない『古事記』の世界観

 『旧約聖書』の、(a) 「人間は塵から創られた物質である」とする「唯物思想」に対して、『古事記』の世界観では、人間を含めた一切万象が「神」なのでありますから、「唯物的要素」は微塵も存在しておりません。「神(隠り身∞幽かな身≠ェ語源と言われている)」(形に現れぬ存在)は、「物質・現象」(形に現れた存在)の反対概念であるからです。

 

3)「支配・被支配」「差別」の概念がない『古事記』の世界観

 『旧約聖書』の、(b) 「人間は創造主≠ゥら創られた被造物≠ナある」とするところの「支配・被支配(二元論)思想」に対して、『古事記』の世界観では、「神」が生んだ「存在」との関係性は、飽く迄「親子関係」であり、「一体」なのです。ここに「支配・被支配(二元論)」や「差別」の概念の入り込む余地はありません。そういえば、「神」と「人間」を「親子」と認識したのは、キリストでした。「天にまします我等の父よ」とキリストは祈っています。この点を見れば、キリストの神観と『古事記』の神観とは同じと言えます。

 

4)「罪は本来無い」事と「罪の消し方」を教える『古事記』

 『旧約聖書』の、(c)「神との約束(契約)を人間が破った為に原罪≠ェ存在する」に対して、『古事記』の世界観では、「神」と「人間」の間には「契約的概念」は存在していません。「神」が「人間」を生むに当たって、「何らの条件も無い」のです。「唯生まれた」のであります。故に、「契約(約束)を破った」という「原罪」の意識は微塵も存在していません。更に、『古事記』並びに「神道」の世界では、「禊祓い」によって、「罪」は消えます。「罪が消える」という事は、「元々罪は無い」ことを意味しています。(罪が本当に実在するのであれば、消える筈はありません。)『旧約聖書』の「原罪」の概念は(最初から有るとしているので)決して消えないのですが、『古事記』や「神道」での「罪」の概念は、「本来無い」から「禊祓い≠ノよって消える」のです。つまり、『古事記』並びに「神道」の世界は、元々「無罪」であるが故に、「罪穢れ」を捨て去る事によって、「許し」が簡単に成立するものと考えられます。もし、キリストが当時「日本」の存在を知っておられたならば、「神の許しの世界」が現実世界に実在していることに、恐らく感激したことでしょう。

 

5)「生む」思想は「一切が神」/「創る」思想は「一切の 被造物は物質」

 『旧約聖書』の思想は、「創造主たる神が、被造物たる人間および万物を創った」という思想です。以上のように、『古事記』における「生んだ」思想と、『旧約聖書』における「創った」思想には、天地の差が生じて来る事が分ります。『古事記』の「生んだ」思想においては、「神」が生んだ「一切万象、人間」は、同一の「神」を意味しています。しかし、『旧約聖書』の「創った」思想においては、「神」が創った「一切万象、人間」は「神ではない」、ということを意味しているのです。それは飽く迄「被造物」に過ぎないという意味です。例えば、「人間」が創った「ロボット」は、人間の「被造物」であり、「人間」にはなり得ないと言う事で理解が出来るでしょう。

 
 

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